子供の頃、近所の教会に通った事があります。 我が家は仏教なのですが、日曜日の早朝子供の面倒を見てくれる危篤な所だと、両親は気楽に通わせてくれました。
当のワタシはと言えば、教会に行くと色々面白い話が聞けて、綺麗なカードが貰えるので喜んで毎週通いました。
カードは今思えばアメリカのクリスマスカードの売れ残りだったようですが、当時(昭和30年代)は綺麗なカードなんか売ってもいないので、子供達は皆喜んでいたのです。
そしてそこで「先生」(宣教師)の話は、子供心にも概ね合理的だと思ったので、ワタシはキリスト教徒になっても「良いかなあ・・・・」とか思っていました。

しかし何と言うか違和感もありました。 その一つがやたらに羊の話が出てくることです。
ワタシは当時大阪に住んでいたのですが、羊と言うものを見たことがありませんでした。 「メリーさんの羊」ぐらいしかイメージがありません。
だって家畜だと言う事で、動物園にもいないのですから。
そして聖書で出てくる羊や羊飼いの元になる遊牧文化など、そもそも当時の日本人の殆どが知らなかったのです。
だから東大教授は「騎馬民族国家説」なんか唱えたのです。
また我が尊敬する塩野七生さんさへ「羊飼いは99頭の羊を置いても、一頭の迷える子羊を助ける」と言う言葉の解釈を間違っています。

塩野さんはこれを非現実的理想主義と解釈されました。 しかし遊牧文化に付いての本などを読むと違うようです。
遊牧の対象になる動物は北はラップランドのトナカイから、南はマサイ族のコブウシまで、皆群れを作る性質のある動物です。 これらの動物は常にギッシリと固まっている性質があり、お互いに群れの中へ中へと潜り込もうとします。
そしてこうして固まっていると、狼やライオンといえどもそう簡単には、襲う事ができません。 彼らが襲うのは、怪我や病気などで、或いは不用意に群れから脱落した者です。
だから羊は99頭固めて、安全な場所に置けば、2~3日放っておいても大丈夫なのです。 しかし迷える一頭の羊はそうは行きません。
だから羊飼いは必死にそれを探す訳です。
遊牧では一人の羊飼いが、時には数百頭の羊を連れて、水や草を求めて、柵も囲いも無い原野を移動します。
もしも99頭の面倒を見るために迷える一頭を諦めるしなかないなら、今日一頭、明日一頭と羊は減っていき、数ヶ月で群れは雲散霧消してしまいます。
だからこの話は羊飼いとしては、極めて日常的な仕事に例えて、「神様は幸福に安全に暮らす人よりも、困っている人を優先的に助けてくれる」ぐらいの意味ではないかと思います。
遊牧文化に生きる人々、キリストの時代のユダヤ人にとっては、日本人が稲作の話を聞くほど日常的で合理的な話だったからこそ説得力があったのです。
しかし塩野さんが解釈を間違えるぐらいですから、日本人が聖書やキリスト教を理解できないのは当然ではないかと思います。

しかしこましゃくれたガキであるワタシは、小学校も高学年になると、更に根源的な疑問を感じました。
キリスト教では良く信者や人間を羊に例え「神の子羊」とか「迷える子羊」と言います。 そして信者を導く人を羊飼いに例えます。
プロテスタントでは実際に信者を指導する聖職者を「牧師」と言います。
でもね、羊飼いって羊の乳を搾り、毛を刈り、挙句に殺して食べるんじゃない?
羊飼いが羊を飼うのは、動物愛護ではなく、生活の手段です。
コイツラ、信者を食い物にしてる!!
実際隣国のキリスト教の牧師なんかまさにその通りではありませんか!!
しかし遊牧文化、更に牧畜なしで生きていけないヨーロッパの文化でも、この事は全然気にならないようです。
彼らは日常的に家畜を飼い、またそれを自分の手で殺して食べます。
それに付いて彼らは自分達の家畜への愛情を全然疑わないし、それを殺す事に疚しさも無いのです。
だから「牧師」などと言う呼称も、彼ら自身が決めたのです。
彼らにとって家畜を愛し殺して食べると言うのは、日本の農家が米を大切に育て、それを刈り取って収穫し食べる事に何の疚しさも無いのと同じなのです。

ワタシは日本人ですから、このキリスト教世界の動物感は、理屈では理解できても感情では受け付けません。
これはワタシがキリスト教徒にならなかった一因だと思います。
だって宗教は理性ではなく感情で信じるものです。
しかし動物を殺さなければ生きていけない人間にとって、自分達の生活の糧になる動物を愛し慈しむと言うのは、当然のことです。
この愛情は崇敬は、所謂動物愛護などなどより、遥かに真摯で誠実なのです。
人間が自分の生命を支えてくれるものを、愛し崇敬せずにいられるでしょうか?
実際、家畜のことを最も愛し慈しみ理解しているのは、畜産業者です。
野生動物を最も理解し、崇敬するのは狩猟民なのです。
「動物を殺すな」と言うのは一見、慈悲深く善良に思えますが、実は自分達が生きるための営みを省みず、その厄介事を他人に委ねての傲慢と偽善と無知以外の何者でもないのです。
そして「動物を殺す」と言う事で他人を非難するのは、自分が感情的に受け付けない他国や他民族への悪意と差別以外の何者でもありません。
今の反捕鯨や「ザ・コーヴ」などで騒ぐ連中を見ていると、このような他文化理解と感情の抑制を失った、理性の衰退と欠如を感じずにはいられません。
これはバッハのカンタータ「羊は安んじて草を食む」です。 民の平和と幸福を守る領主を讃えてるカンタータです。
これをこちらのブログ主に捧げます。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1656557/
このブログ主のような独善と無知と理性の欠如こそが、他民族他文化を破壊してきた元凶なのです。
馬鹿につける薬は無いのですが、少しつけて差し上げたいと思いました。































by 河童工房【’◇’】
動物を殺す その3